なにもできない

なにもできないから何か書く

なんでうつになったのだろう

やる気が出ない。

何もする気がない。

 

掃除、洗濯、炊事と生活に関してやることはいろいろあるがどうにも動くことができない。今までやっていた趣味もいまいち手につかず、外に出かけようにもすぐ疲れてしまう。この間もやっとのことで美容室に行ってきたが、なかなかに多くのエネルギーを要した。買い物に出るのもハードルが高い。

ここしばらくずっとこの調子だ。

 

原因は何かといえば、昨年から続いているうつなのかもしれないが、時折、本当にそうなのだろうかと疑問を抱いてしまうことがある。

 

現在、療養中で仕事もしてないので時間は大いに余っている。それもあって色々なことを考えてしまうのだが、やはり考えるのはうつについてのことばかりだ。落ち込みのひどい時はまともな思考にならないため、とにかくやり過ごすことに苦労しているが、比較的落ち着いている時は、「何故うつになったのか」「何がいけなかったのか」「これからどうすればいいのか」などをぼんやりと考えている。

 

そんなことを考えている中で、どうしても気になってしまうのが「原因」が何かということ。あの仕事がいけなかったのか、自分のやり方がよくなかったのか、それとも元々の人格からして問題があったのではないか。色々と考え、原因を探してしまう。うつであるが故のネガティブな思考もあるとは思うが、とはいえ「すべてうつのせいだから仕方がない」と考えることもできないし、それが正しいとも思えない。

 

自分は昔から、気の弱い性格であった。あまり自分の意思を出すことが出来ず、周囲に流されることが多かった。その反動からか、中学生頃からは人とは違うことをしようとしていた。(せいぜい少し変わった音楽を聴くなどの程度であったが。)人前では自分を出せず、心の内ではどことなく大衆的なものを見下すような少し捻くれた状態になっていった。ある意味ではありふれた中学生かもしれないが。高校に入ってからは、あまり人と関わらなくなっていき、そんな状態は長く続くことになり、さらに拗らせていった。ますます他人に心を開けなくなっていったのだ。勉強にも躓き、通信制編入、浪人の後、大学へ入るも、やはり馴染めず中退。その後もいろいろあったが、とにかく人と関わることができなくなっていた。一時は引きこもりにもなった。(現在もそれに近かったりするが…)実は高校生の頃から精神的に不安定になり始め、軽く抑うつ状態になってもいた。思い返せば、その頃から抱えた問題を解決できないまま今に至っている。ここまで考えてみると今のうつもなるべくしてなったようにも思える。

 

しかしながら、割と大丈夫だった時もあった。簡単に言えばストレスのかかっていない時だ。そしてうつになった時の仕事はハッキリとストレスだったと言える。あえて苦手とわかっている世界に飛び込んだのも自分だが、そうすれば何か変わることができるかもしれないと当時は期待していた。実際は、しんどいものはしんどいままであったため、うつになった。なので仕事を辞めた今、少しずつ落ち着いてきている。そんなこともあって、今の自分はうつのくせに未来に絶望まではしていない。自分にとってストレスの少ない場に身を置けば生きていくこともできるのではと思っているのだ。少し話はそれたが、結局のところ、うつの原因は自分にも環境にもあったのかもしれない。そしてたぶん、何がいけなかったと断定できるものでもないのだろう。自分でもまだ考えが及ばないいくつもの要因があって、その結果うつというものになった、というのが本当のところかもしれない。それには治せる部分とどうにもならない部分とがあるようにも思える。

なんにしても色々抱えたまま生きるしかないのかもしれない。

 

比較的大丈夫な時に思ったことでした。

うつに飲まれた時はこんなこと吹き飛んでしまうんだけど。

うつのひとりごと

昨年の3月にうつと診断された。

一時は調子が良くなったこともあったがここ最近またしんどくなっている。何もする気が起きず常にだるいため寝ていることしかできない。少し油断すれば自分はもう生きていけないのではないかと不安に飲まれそうになる。またぶり返してしまっている状態だ。

 

 

波がありつつもしばらく鬱々としたあと、昨年の11月頃はとても調子がよく自分としてはなかなかに活動的であった。興味のある職に就くための下調べや行動を意欲的にやっていた。気持ちとしても前向きでやっと自分の人生を立て直せると思い胸に希望を抱いていた。

 

しかし12月の中頃、車の運転中に不注意から追突事故を起こしてしまった。幸い軽いもので、事故の処理もすぐに済んだが、それをきっかけとして心はまた不安定に落ち込んでしまった。

 

さらにそんな中で、うつと診断されてからそろそろ一年が経とうとしていて、年度末も近づいていることから何か意味のあることをしなければと焦る気持ちが湧いてきて余計に落ち着くことができなくなっていく。

 

そんな経緯から、今も鬱々として力なく横たわりながら心の中はぞわぞわと落ち着かない生活を送っている。

 

ただ、完全に絶望にしきっているというわけでもなく、生きるのを諦めるつもりもない。

もちろんこれからどうなるかはわからないが。

 

こんなことを書いて何がしたいのかもよくわからない。ただ何かをしたという気分がほしいだけなのかもしれない。何かをしていないとまたイヤな気持ちが湧き上がってくるのも確かで、それから逃れるためなのかもしれない。何かにつながるわけでもないが自分を保つために必要なことのように感じている。

コーヒーは大人の飲み物

子供の頃、コーヒーはそれほど好きではなかった。苦味や酸味は「おいしい味」ではなく、複雑な匂いも理解ができず謎めいた飲み物だった。しかし、いつしか苦手だった苦味酸味を面白く感じるようになり、チェリーやベリー、ナッツなどに例えられる複雑な匂いも完全な理解はしなくても、複雑なまま楽しめる「素敵な香り」と思うようになっていた。

 


個人的にこれは「大人になった」からだと考えている。子供は単純でわかりやすい刺激を好み、気に入った世界や安全が確保された世界から外に出ようとはあまりしない。それは子供なりの身を守る術だとは思うが、ずっとそうしていることはできない。成長するにつれ外の世界へ踏み出していく必要があり、受け入れる世界を広げていくのが大人になるということなのだ。つまり大人になるとは「受け入れる」ということである。

 


そして気をつけたいのが、受け入れると同時に何かを否定してしまうことだ。「大人」というものを意識した時、それまで自分の世界にあったものを「子供のもの」として否定してしまう危険がある。大人になるとは文字通り世界を「広げる」ことであって、「乗り換える」ことではない。もしそこを間違ってしまうと、子供を卒業した「大人の世界」という限定された世界にこだわり、それ以外を受け入れないということになってしまう。それはつまり先に述べた「子供」のすることなのだ。

 


もちろん何でもかんでも受け入れるのは安全ではないだろうしそれが正解とは限らない。やろうにも難しいこともあるかもしれない。常に外の世界に扉を開くというのも疲れるもので、たまには閉ざす時があってもいいとは思う。でも人として生きていく上で「受け入れる」ということはとても大切なことなのではないか。

そんなことを一杯のコーヒーを飲みながら考えた。

 

 

絵を描くという瞑想

気持ちはいつも張りがなく、だらだらしてると思えばうつうつしたり。

その反動か変にヘラヘラしたりと落ち着かない状態が続いている。

 

やることはあるがやる気になれず、やりたいこともなんだか気が乗らない。

そしてやらなければならないことが怖くて逃れるように他のことをする。

 

そんな感じで絵を描いている。

特に猫の絵を描いている。

何故だかこれはできている。

 

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もしかしたらやるべきことからの逃げなのかもしれないが、絵を描いている時だけは心が落ち着いて、どこか救われた気持ちになる。

無心でただひたすら手を動かして、頭の中に何もない状態が心地よくもある。

 

これはたぶん瞑想なのかもしれない。よくわからないが。

瞑想、マインドフルネス、メディテーション、、、

なんとなくそういったもののような気がしている。

心の中の不安、焦り、虚しさその他諸々。

絵に集中している間はそれらが気にならなくなる。

 

どんな意味があるかはわからない。

ただ何かしていないと生きた心地がしない。

ただそれだけのこと。

 

次は何を描こうか。

違う紙も試してみようか。

水彩画もやってみようか。

そんなことを考えているのが楽しい。

楽しいことをしている。

いいんじゃないかなと言いながら。

 

そうして人生が進んでいるかはわからない。

今日も時間は進んでいくが。

 

 

 

 

うつになって変わったこと

うつです。うつ人間です。

合わない仕事に就いてしまって、それでも無理をしながら頑張っていた。

あるきっかけから、突然体がおかしくなり、それはそれはなかなかに大変だった。

 

しかしながら、酷い時期は過ぎて、薬のおかげで今ではだいぶマシになっている。

抗うつ薬なんかを悪く言う人もいるけど、僕はかなり助けられた。

 

少し落ち着いてきて、いろいろと振り返ってみた中で、思ったことがあるので書いておこう。

 

 

 

 

 うつの症状として様々なものがあるが、よくあるものの1つに「趣味が楽しめなくなる」というものがある。もちろん、僕もそうなった。

以前は、ギターを弾くことが好きだった。(長くやってる割に下手であるが…)

ゲームもしていた。それなりに楽しんでいた。

そして読書も。多読ではないが、いろいろな本をゆっくりと読むのが好きだった。

 

しかし、どれもできなくなった。

楽しくないし、何より、集中できないのだ。

わくわくもドキドキもなく、何かを始めてみても、「つまらない」という感覚しか持てなかった。読書に関しては、集中できない上に、頭が追い付かず読み進めることができなくなってしまった。

 

もちろん、うつの酷い時は、常に頭の中がごちゃごちゃとして、趣味どころではないのだが、落ち着いてきた今でも、これまでの趣味が楽しめないのは変わらなかった。

読書だけは、まだ多少、集中が続かないが、理解力は戻ってきた。

 

個人的な感覚だが、一般的にうつのイメージと言えば「暗くうなだれて生気が無く、ぼんやりとしている」といった感じなのではないかと思う。実際、外からはそのように見えるかもしれないし、ある程度その通りではある。

しかしそうではないときもある。先ほどにも書いたが、見た目に反し、頭の中はごちゃごちゃとしているのだ。何か具体的なことを考えているというよりは、いろいろなことが頭の中を駆け巡り、とにかく雑然としている。そして、その内容は基本的にネガティブなことで、自分でもコントロールすることができない。

今は多少マシな状態ではあるが、ふとしたことで頭の中のごちゃごちゃが戻ってくることがある。

少しでも頭が働きだすと思考がネガティブであふれてしまうのだ。

そのため、普段は、あまり刺激のあるものに触れず、できる限りストレスを避けるようにしている。というか、自然とそうしている気がする。そして、これまでの趣味もストレスとなる刺激になってしまう。

 

そのことが原因と言えるのかはわからないが、基本的に頭の中は「ぼんやり」か「ごちゃごちゃ」のどちらかで、「楽しい」や「わくわく」が入る隙間が無いのである。

これがなんとかならない限り(つまりうつが治らない限り)、以前のようには過ごせないような気がする。

 

 

 

 

 

というのが今までの自分の考えだったが、最近になって少し違う部分があるのではないかと思い始めた。

 

もちろん、うつになったばかりのころは、とにかくしんどくて何もできなかった。

落ち着いてきている今でも、今までの趣味はあまり楽しめていない。

しかし、あるきっかけで始めたことが、それなりに楽しく続けられているのだ。

それは、お絵かきである。色鉛筆を使って絵を描き始めたのだが(それまでやったこと

もないのに)なぜか続けられている。

 

 

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前回の更新で書いたSNSのGRAVITYにて公開しており、そこで反応が得られるのも、モチベーションの原因の1つだろうが、描いてる間は「無心」になることができるのが重要だと思う。それはつまり「ぼんやり」でも「ごちゃごちゃ」でもない状態になれるということなのだ。

 

もしかしたらうつになる前に始めても楽しめていたかもしれないが、うつであってもできることが見つかった。どう過ごしていいかわからない中に少しばかり希望を見つけることができた。

 

なんとなく思うことだが、うつというものは少しでもストレスがかかることができなくなる分、反対に、「ストレスなくできること」が浮き彫りになる。もっと言えば、それは自分にとって「本当に合ったこと」であると言えるのかもしれない。

 

まだ自分自身、うつの真っただ中なので、本当のところどうなのかはわからないが、そんなことを考えた。

 

 

 

 

パチンコと自我

 


パチンコの轟音とも言えるほどの騒音は相当なものだ。あらゆる音が混ざり合い、けたたましく響く音は地響きのようで、その中ではまともに会話をすることなど不可能である。わざわざ耳栓まで持って行く人もいるそうだ。

そして、台の前に座れば、耳をつんざくような音とともに、激しい光を浴びせられる。およそ可視光の全ての波長を光らせているかのように、さまざまな光が次々に輝き、ハズレだのアタリだのを演出する。

 


しかし、パチンコをする本人はどうだろうか。ただハンドルを握り(固定してしまって握ってすらいない人もいる…)、特に動くこともなく、死んだ魚の目をして玉の行く末を眺めているだけである。台そのものの忙しなさとは対照的であり、客観的には不気味にも感じる。あまりに不健全である。

 


ところがである。普通の人にとっては、何が面白いのか理解できず、ギャンブルであることも併せて、嫌がられるようなものだが、特定の人間、特定の状態に於いては、むしろその不健全さが心地よかったりするのである。(単にギャンブルが好きな人間は除外する)

それは自我に関係する。自己、あるいは自意識といってもいいかもしれない。

 


十分に自我の発達していない人間は、自らの意思も薄弱で、人生において重要なこと(生活や仕事、人間関係など)に向き合えない。その度量がない。そして自身の身体、精神、人間性の成長ができず、それゆえに充実感もなく過ごしている。そして、その空虚感を埋めてくれるのがパチンコである。何もせずとも強い刺激が浴びせられ、運が良ければお金が手に入り「収穫」があったかのような気分になれる。実際は人間的な成長など全くしていないのだから、何も収穫などないのだが…

 


もう一つ、自我の強すぎる人の場合もある。

彼らはとにかく悩む。自身の過去の意味を振り返り、現在においてどうあるべきか、未来においてどうありたいか、などを悶々と考えている。それが生きる上でうまくいっていればいい。そしてその時、彼らはパチンコを必要としない。パチンコを必要とするのは、うまくいかなくなった時だ。基本的に悩む人は、必要以上に悩み、結果、必要以上に苦しむ。その苦しむ自我を一時的にでもかき消すためにパチンコを利用する。目まぐるしく変わる演出に自身の中を無にするのだ。

 


どちらの場合もようは現実逃避である。ギャンブルの違法性、依存性、費用がかかるなどさまざまな問題はあるが、誰もが心に闇を抱える現代としては、このようなものが存在する意味ももしかしたらあるのかもしれない。

 


ちなみに、お金がかかるという問題はゲームセンターのパチンコであれば、ある程度はマシである。もし、心が空虚感に支配される、嫌な思考が止まらないなどといった時は試してみてもいいのではないだろうか。

 


もちろん、本質的な解決とはならないが…

シュークリームとマリトッツォの違い…

最近流行りの食べ物として「マリトッツォ」というものがある。ぱっと見はパンにたっぷりのクリームを挟んだ食べ物だ。しかし、よく見てみるとシュークリームと似ているような気もする。ということで両者の違いについて調べてつつ考えてみる。

 

 

 

シュークリームの場合、中はカスタードクリームであることが多いが生クリームのシュークリームもある。この時点ではマリトッツォと同じである。

生地についてはシュークリームはシュー生地、マリトッツォはブリオッシュ。

シュー生地の材料はバター、水、小麦粉、卵。焼き上げる時の水分の蒸発によって内部に空洞ができ、さっくりとした生地になる。甘みやコクはない。

ブリオッシュの材料はバター、牛乳、小麦粉、卵がメイン。砂糖なども入るため、甘くコクのあるしっかりとした生地となる。パンというよりはケーキに近いようだ。

以上のことから、両者の違いは生地の違いであるといえる。
シュークリームは軽く、あまり主張のない生地により、クリームそのものを楽しむ目的が強いようだ。
マリトッツォの場合はパウンドケーキのような生地にたっぷりのクリームを合わせたもので、クリームの乗ったケーキを食べる時、さらに多くのクリームが欲しいと願う人の願望を叶えたものいえよう。

つまり、多少暴論かもしれないが、どちらも主体はクリームなのである。クリームを食べるために、それを包む生地が必要なのであって、あくまで生地は添え物という扱いなのは、どちらも変わらないということができる。

したがって、シュークリーム、マリトッツォは同一の食べ物である。


わかりやすく例を出してみよう。
なんでもいいのだが、「から揚げ弁当」で考えてみる。から揚げ弁当は何によってから揚げ弁当となっているのだろうか?もちろん、それはメインの料理のから揚げである。付け合わせの料理が、マカロニサラダであろうが野菜のマリネだろうが、どちらもから揚げ弁当である。ご飯にゆかりがかかっているか、ごま塩がかかっているか、あるいは何もかかっていないか。から揚げの下にスパゲッティが敷いてあるのか、レタスが敷いてあるのか。どれもそれが「から揚げ弁当」であることには関係がない。

理解していただけるだろうか。
メインとなる目的が同じなのであれば、添え物の違いはバリエーションの違いでしかなく、本質的には同じものなのである。

結論としてもう一度述べておく。
シュークリームとマリトッツォは同じものなのである。