なにもできない

なにもできないから何か書く

チキンラーメンはおいしいのか?

最近、チキンラーメンを食べた。

なんとなく久しぶりに食べてみようという気持ちからだった。

以前に食べたのがいつだったかはもう覚えてもないがしばらく前なのは確かだ。

久しぶりに口にしてみると、「そんなおいしくはないよな。」それが自分の素直な感想だった。

そして、はっきりとは思い出せないながらも前回食べたときの記憶として同じ感想を持ったことをおぼろげながら思い出す。

では、自分はなぜチキンラーメンを食べたのだろう?

主観ながら、味がそれほどでもないこの簡素なインスタントラーメンはなぜそれなりに売れているのか?

そんなことをふと考えた。

 

 

 

 

まず自分が久々に買う気になった理由は、「なつかしさ」だった。

自分の祖父はかつて小さな会社を経営しており、子供のころその事務室で祖父とチキンラーメンを食べた記憶がある。

もちろんそれ以外でも食べたことはあったが、そのときのことがまず初めに呼び起こされる。

チキンラーメンを食べるとその味・匂いにつられ、事務室のにおい・景色や昔の祖父の様子などが脳裏に浮かんでくるのだ。

それが懐かしくて定期的に食べたくなっているようだ。

つまり自分にとってチキンラーメンは、そんな懐かしい記憶を呼び起こす「媒介」として働いてくれるものであるようだ。

チキンラーメンは値段も安く、手軽に食べられるため、子供のころに食事あるいはおやつとして食べた人も多いのではないだろうか。

そのため、大人になってから食べてみて当時を思い出すこともあるはずだ。

 

 

 

 

 

これは主観でしかないので少し客観的な視点も考えてみたい。

ここ最近のチキンラーメンのテレビCMで「最高にうまい食べ方は外だ!」という言葉を聞く。(もう変わってるかも)

最近流行りのキャンプに合わせてのものだと思うが、その意味としてはアウトドアの「解放感」と共に楽しむことでよりおいしく感じられるということだろう。

新型コロナが流行し、娯楽が制限され、あらゆることに自粛を求められ窮屈さを感じる中、屋外での「解放感」を「増幅」させることができると謳っているのである。

つまり、チキンラーメンの本来の味そのものというより、楽しさをより強く感じさせてくれる「増幅装置」としての面を押し出したCMなのだ。

これは僕の思う記憶の「媒介」と同じようなものではないか。

チキンラーメンは記憶の「媒介」、楽しさの「増幅装置」として働き、形のない何かをトッピングのようにして一緒に味わわせてくれるのである。

 

 

 

 

 

これまで「媒介」「増幅装置」としての価値について書いてきたが、味については「そんなにおいしくはない」で終わっていいのだろうか?

僕が「おいしい」について一つ思い出すのが、かの美食家、北大路魯山人の著書で読んだことだ。

なんという名前か、その内容そのものもうろ覚えであいまいなので間違っているかもしれないが、それは「フグ」についての話だった。

魯山人曰くフグは「味がなく、それだからこそ美味である」とのことだ。

僕自身、数回ながらフグは食べたことがあり(もちろんトラフグ)、自分の味覚で「味がない」と感じていたのでこの話はよく覚えていた。

正直、魯山人の真意はよくわからないが、自分としては「美味」「おいしい」は味覚のみで語られるものではなく、味が無くても他のさまざまな要素から成立するという解釈をしたいと思う。

これをチキンラーメンに当てはめると、味そのものがそれなりでも、「媒介」「増幅装置」としての他の価値によって「おいしい」と言うことができるのではないだろうか。

 

 

 

 

 

 

つまりチキンラーメンは「おいしい」のである。

実際長く売られているわけなので、多くの人が何かしらの価値を感じており、そこにはこのような価値が隠されていたのではないだろうか。

それぞれの人がチキンラーメンによって何を思い出すのかとても気になるところである。

 

 

 

 

 

しかし、5袋入りで買ったチキンラーメンも1つ食べたら満足してしまった。

もう食べたい気持ちもないし残りをどうしよう。。。