なにもできない

なにもできないから何か書く

すべての原因は発達性トラウマ?

僕はなぜしんどいと感じるのだろうか。なぜ、「まとも」になれない、と自分に絶望し、生きることをあきらめそうになるのか。なぜ、「あのときこうしてれば」と変わりもしない過去のことばかり考えて、未来を見捨ててしまうのか。

わからない。現在、うつでもあるため、思考がネガティブになっているのもあるだろう。落ち着いて考えれば、実際はそれほどのことではなく、頑張れば解決に向かうものであるのも、理屈としてはわかっている。

しかしながら、このネガティブはずっと前からもあった。高校に入ってから、徐々にいろいろなことに不安を強く感じるようになり、抑うつ状態になるようになった。結果、2年の終わりにやめることになったが、今思えば、元来の不安を感じやすい性質に加え、パーソナルスペースの皆無な毎朝の満員電車での通学、それまで育ってきた環境の違いからくる都会の人間に対する異文化感、自我が薄弱だったゆえの将来を考えることからの逃避、勉強という行為が実は嫌いだったこと...と言った感じで、割とありがちな悩みであったが、自分で向き合うことがうまくできなかった。

そして、自分に向き合えていない問題は今にも続いている。十数年とたってはいるが、ずっと続きにあることなのだろう。

 

 

 

 

目下の問題としては、今後の生き方、つまり仕事をどうするかだが、他の細かな問題と合わせて、根本的で最も重要なのが、発達性トラウマというものなのではないかと僕は考えている。

世に出版されている書籍を読んだだけだが、発達性トラウマは、複雑性PTSDともいわれ、幼少期から育つ中で負ってしまう問題のようだ。トラウマ(PTSD)というものが、強烈なストレスにさらされた一度きりで発症するのに対し、発達性トラウマは、軽度のストレスに何度もくり返しさらされることでなり、通常のトラウマを抱えているのと同じような状態になる。愛着障害もこの内に含まれるらしい。明確な虐待を受けて育っているわけでなく、「ふつう」の家庭に育っていようとそれは起こりうる。

発達性トラウマの問題は、心の問題を超えて影響が起こり、神経系にまでそのトラウマが刻まれることである。命、身体に危機が及ぶほどの出来事ではなく、些細な否定的な言葉、自分を蔑ろにするような態度をとられる、などを幼少期に何度も経験することで、その「小さな危機」に対し、神経系が緊張した状態になりやすく、社会的なふるまいが難しくなってしまうようだ。その態度のパターンは2種類に分けられるようだが、ここでは割愛する。そして成長の中でそのような神経系が作られた人は、その傷が無くなることはないともいう。

 

 

 

 

自分としては、虐待ともいえることをされてはいないが、精神的に傷つくような言葉、態度を親から何度も受けた覚えがあり、今でも思い出すことは多い。よくしてもらったことも多く、親を悪者にして、自分が楽になれるわけではない。自分のこれまでを思い出してみて、「ふつう」のことができなくで苦痛を感じ、発達障害などにも当てはまらない自分を説明するにはこれが最もしっくりくるのである。そして、今後の生き方を考えるには「うまくいかない自分」とその「傷」を受け入れる必要がある。そこからやっと自分の人生がスタートするのではと思う。

 

 

 

 

今、いろいろなことで思い悩んでしまうのは発達性トラウマが問題であるとして、どうしていけばいいのだろうか?

まず、「安全」を感じられなくなっていしまった神経系をいやす術を身に着けることが大切なようだ。いろいろ方法はあるようだが、1つ、自分にとって良かったのが、動物に触れることだ。自らの神経系で安全を感じられない人にとって、リラックスした様子の動物に触れることは、間接的に「ここは安全なんだ」と感じられるということらしい。僕自身、実家の犬に触れるととても癒されたし、池のある公園に行けば、カモがのんびりと水面を泳ぐ様子にも癒された覚えがある。人間以外の、自然の近くにいることが重要なようだ。

そして今後の動向を決める指針として、「危険」感じる対象は基本的に人間であるため、できる限り人に多く関わらないということも重要ではないかとも思う。

しかし、自分自身、まだ、どうすればいいかを悩むことも多く、これからどうなっていくのかも全くわからない。

 

 

 

発達性トラウマについて考えないといけないことはまだ多いようだが、個人的に、さまざまな精神疾患、パーソナリティ障害などの根本はこれなのではないかと思っている。十分に守られず、十分に愛されなかった人の挫折にもがき苦しんだ結果がうつ病などにつながっているのかもしれない。僕自身も発達性トラウマを知ってから、これからの生き方を前向きに考えられうようになったので、多くの人にこの根本の問題を知ってほしいと思っている。