なにもできない

なにもできないから何か書く

パチンコと自我

 


パチンコの轟音とも言えるほどの騒音は相当なものだ。あらゆる音が混ざり合い、けたたましく響く音は地響きのようで、その中ではまともに会話をすることなど不可能である。わざわざ耳栓まで持って行く人もいるそうだ。

そして、台の前に座れば、耳をつんざくような音とともに、激しい光を浴びせられる。およそ可視光の全ての波長を光らせているかのように、さまざまな光が次々に輝き、ハズレだのアタリだのを演出する。

 


しかし、パチンコをする本人はどうだろうか。ただハンドルを握り(固定してしまって握ってすらいない人もいる…)、特に動くこともなく、死んだ魚の目をして玉の行く末を眺めているだけである。台そのものの忙しなさとは対照的であり、客観的には不気味にも感じる。あまりに不健全である。

 


ところがである。普通の人にとっては、何が面白いのか理解できず、ギャンブルであることも併せて、嫌がられるようなものだが、特定の人間、特定の状態に於いては、むしろその不健全さが心地よかったりするのである。(単にギャンブルが好きな人間は除外する)

それは自我に関係する。自己、あるいは自意識といってもいいかもしれない。

 


十分に自我の発達していない人間は、自らの意思も薄弱で、人生において重要なこと(生活や仕事、人間関係など)に向き合えない。その度量がない。そして自身の身体、精神、人間性の成長ができず、それゆえに充実感もなく過ごしている。そして、その空虚感を埋めてくれるのがパチンコである。何もせずとも強い刺激が浴びせられ、運が良ければお金が手に入り「収穫」があったかのような気分になれる。実際は人間的な成長など全くしていないのだから、何も収穫などないのだが…

 


もう一つ、自我の強すぎる人の場合もある。

彼らはとにかく悩む。自身の過去の意味を振り返り、現在においてどうあるべきか、未来においてどうありたいか、などを悶々と考えている。それが生きる上でうまくいっていればいい。そしてその時、彼らはパチンコを必要としない。パチンコを必要とするのは、うまくいかなくなった時だ。基本的に悩む人は、必要以上に悩み、結果、必要以上に苦しむ。その苦しむ自我を一時的にでもかき消すためにパチンコを利用する。目まぐるしく変わる演出に自身の中を無にするのだ。

 


どちらの場合もようは現実逃避である。ギャンブルの違法性、依存性、費用がかかるなどさまざまな問題はあるが、誰もが心に闇を抱える現代としては、このようなものが存在する意味ももしかしたらあるのかもしれない。

 


ちなみに、お金がかかるという問題はゲームセンターのパチンコであれば、ある程度はマシである。もし、心が空虚感に支配される、嫌な思考が止まらないなどといった時は試してみてもいいのではないだろうか。

 


もちろん、本質的な解決とはならないが…