なにもできない

なにもできないから何か書く

ブロッコリーの中には何がいる?

ブロッコリーはおいしい。

栄養価がよく、調理も簡単で、いろいろな食べ方のできるブロッコリーはとても素晴らしい野菜だ。炒め物にいれてもおいしいし、ゆでたブロッコリーにマヨネーズをつけてるだけでもおいしい、最近はオリーブオイルをかけて、少し塩を振って食べるのがお気に入りだ。ゆでなくても、電子レンジで手軽に調理できてしまうのもありがたい。

そんなブロッコリーだが、食べているとき、まれに、違和感のある歯ごたえを感じるときはないだろうか?ブロッコリーの柔らかいつぼみの食感とは違う、少し硬いような、ジャリっとした歯ごたえがするときがある。

確かめたことはないが、大方、虫、ゴミ、土、などだろう。小さなつぼみが密集した隙間に、いろいろなものが入り込んでいても不思議ではない。意識してみると、それらを食べているのは気持ちが悪い気もするが、意外と普段は気にせず食べていたりする。気づくことすらなく食べているときだってあるだろう。

 確かに、「何か」が存在する。でも、認識はされない。結果、なんとなく、それが無かったかのように受け取ってしまう。もしかすると、認識されなけば、それは存在しないのと同じことなのではないか。いや、存在しないのだ。少なくとも、私の意識の中では。 

 

 

 

ここでふと思ったのだが、同様のことは他にもあるのではないかということだ。

 

格安商品の裏側

魅力的な値段で家計にも優しいが、一般的な値段と異なるその理由は何であろうか。特別な企業努力かもしれないし、何らかの「ズル」をしているかもしれない。

 

成績優秀な子の家庭での勉強時間

特に中学、高校の勉強は、頭の良し悪しよりも、努力量によって結果が決まると言っても過言ではない。勉強の苦手な子が「あいつは頭がいいから」とよく言うが、その子は成績優秀者が勉強に費やす時間、労力を知らないのだ。

 

知らずに住んでいる事故物件

その家、部屋で過去に何があったのか。凄惨な事件あるいは事故があったとしても、それを知らなければ、普通と何ら変わらない部屋でしかない。

 

政治家が受け取る袖の下

言わずもがな、現在においても様々な疑惑は存在する。しかし、疑惑のまま立件されないとなると、我々にはその真偽を確かめる術はない。何かがありそうでも、公には何もないということになる。

 

マイノリティーが受ける差別

自分は多数派に属することが多く、何らかの差別を受けた経験は無い。幸か不幸か、差別を知らないのだ。世の中にどんな差別があるか、知識として知っていることもあるが、当然、知らないことも多いはずだ。自分の中に存在しない差別も多いということである。もちろん、「知っている」だけで存在を認識しているなどと言い切ることもできないだろう。

 

しかしながら、これらは事実を知らない人にとって、存在しない問題であり、実際に自身に何らかの影響があろうと考える必要のないことである。

 

 

 

 

 

 

 また、反対に、認識してしまえば、頭の片隅からすらその存在を消すことはでないのもあり得る。

 

 夏休みの宿題

人にもよるだろうが、休みの終盤まで後回しにしていた人も多いと思う。宿題を後回しにした少年は、長い休みを満喫するべく、だらけ、遊び惚けるが、実はその心にはいつも宿題のことが存在する。そして、それをかき消すがごとく、追われたように夏を過ごす。

 

 そして、上記の、格安商品の裏側、優秀な子の勉強時間、事故物件、袖の下、差別も、何かのきっかけでそれを目の当たりにしたとき、その存在は確実に認識され、もう二度となかったことにはできないのである。

 

 

 

 ブロッコリーを細かく切り分け、中を確認すれば、「何か」の存在を実感できる。でも、そんなことをする人は皆無であろう。面倒くさいのだ。自分にとって知る必要のないことのために、わざわざ手間をかけることはしないものである。そして、人は、なんとなくある「何か」をそのままにしておき、無かったことにする。あたかも、はじめから何もなかったかのように…

 

 

 

結論を出そう…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

つまるところ、ブロッコリーの中には「何も無い」のである!

 

 

 

よかった!

我々は虫やゴミなどは食べてなかったのだ。これで安心(?)