なにもできない

なにもできないから何か書く

電話なんて嫌いだ!

私は電話が嫌いだ。心の底から嫌いだ。

 

 

 

 


人は皆、他人と向き合う時、その人に向けた顔になるものだ。表情、言葉、声色、姿勢、ふるまい、態度など、相手が変われば、それらもガラッと変わる。

親に対する態度と恋人に対する態度が同じ人などいないだろう。当然のことだ。

そして、ひとりの時も「ひとりでいる用の自分」がいる。

 


いろいろな自分がいるのである。この考え方は分人主義というものを参考にしているが、ここで私が言いたいのは、その「切り替え」についてである。

 

 

 

 


これから友人に会うという状況を想像してみてほしい。まず、はじめは「1人の時の自分」からスタートし、友人が視界に入った時から、徐々に「その友人に対する自分」に切り替わり始める。軽く挨拶を交わし、互いの服装、髪型の変化に触れつつ、それぞれの近況の話に移っていく。そして会話が進んだ頃に、多少、踏み込んだ悩みや相談などを話し始める。

 

 

 

このように異なる「自分」に切り替わるには、ある程度、段階を踏み、時間をかける必要がある。いくら仲のいい友人であっても、会った瞬間に、深刻な相談をし始める人はそういないだろう。他にも、学校にて、先ほどまで先生と「志望校への合格が望み薄」との話しをしたばかりなのに、その後すぐ友達と楽しく遊び始めることもできないはずだ。

 

 

 

 


人の気持ちには流れがあり、急に切り替えることは難しい。無理にやろうとすれば、それは大きなストレスになる。

 

 

 

 

そして、電話である。

誰かと共に楽しく過ごしている、あるいは、ひとりでリラックスしている、そんな状況などお構いなしで、あなたの時間を奪い、「私に対応しろ」と強引に割り込んでくる。

好ましい相手であれ、好ましくない相手であれ、突然に「その人用の自分」に切り替えるのは大きなストレスであり、電話がかかってくるまでの「自分」を一瞬にしてかき消してしまう。風情も何もない。それは人の心に反するものだ。

 

 

 

 


メールやLINEはまだいい。ある程度、自分のペースで返信ができるので、急な切り替えは必要ない。(LINEの既読というのもあまりいいものとは思えないが…)

そして電話にしても、アポをとり、事前に時間を決めていたならまだ許すことはできる。

 

 

 

 

 

 

とにかくアポもなしに電話をかける行為は、人の心を乱すだけであり、すぐにでもやめるべきである。一刻も早くこの世から電話というものが消え去るのを祈るばかりである。

わたしは、ただただ、電話が嫌いなのだ。

すべての原因は発達性トラウマ?

僕はなぜしんどいと感じるのだろうか。なぜ、「まとも」になれない、と自分に絶望し、生きることをあきらめそうになるのか。なぜ、「あのときこうしてれば」と変わりもしない過去のことばかり考えて、未来を見捨ててしまうのか。

わからない。現在、うつでもあるため、思考がネガティブになっているのもあるだろう。落ち着いて考えれば、実際はそれほどのことではなく、頑張れば解決に向かうものであるのも、理屈としてはわかっている。

しかしながら、このネガティブはずっと前からもあった。高校に入ってから、徐々にいろいろなことに不安を強く感じるようになり、抑うつ状態になるようになった。結果、2年の終わりにやめることになったが、今思えば、元来の不安を感じやすい性質に加え、パーソナルスペースの皆無な毎朝の満員電車での通学、それまで育ってきた環境の違いからくる都会の人間に対する異文化感、自我が薄弱だったゆえの将来を考えることからの逃避、勉強という行為が実は嫌いだったこと...と言った感じで、割とありがちな悩みであったが、自分で向き合うことがうまくできなかった。

そして、自分に向き合えていない問題は今にも続いている。十数年とたってはいるが、ずっと続きにあることなのだろう。

 

 

 

 

目下の問題としては、今後の生き方、つまり仕事をどうするかだが、他の細かな問題と合わせて、根本的で最も重要なのが、発達性トラウマというものなのではないかと僕は考えている。

世に出版されている書籍を読んだだけだが、発達性トラウマは、複雑性PTSDともいわれ、幼少期から育つ中で負ってしまう問題のようだ。トラウマ(PTSD)というものが、強烈なストレスにさらされた一度きりで発症するのに対し、発達性トラウマは、軽度のストレスに何度もくり返しさらされることでなり、通常のトラウマを抱えているのと同じような状態になる。愛着障害もこの内に含まれるらしい。明確な虐待を受けて育っているわけでなく、「ふつう」の家庭に育っていようとそれは起こりうる。

発達性トラウマの問題は、心の問題を超えて影響が起こり、神経系にまでそのトラウマが刻まれることである。命、身体に危機が及ぶほどの出来事ではなく、些細な否定的な言葉、自分を蔑ろにするような態度をとられる、などを幼少期に何度も経験することで、その「小さな危機」に対し、神経系が緊張した状態になりやすく、社会的なふるまいが難しくなってしまうようだ。その態度のパターンは2種類に分けられるようだが、ここでは割愛する。そして成長の中でそのような神経系が作られた人は、その傷が無くなることはないともいう。

 

 

 

 

自分としては、虐待ともいえることをされてはいないが、精神的に傷つくような言葉、態度を親から何度も受けた覚えがあり、今でも思い出すことは多い。よくしてもらったことも多く、親を悪者にして、自分が楽になれるわけではない。自分のこれまでを思い出してみて、「ふつう」のことができなくで苦痛を感じ、発達障害などにも当てはまらない自分を説明するにはこれが最もしっくりくるのである。そして、今後の生き方を考えるには「うまくいかない自分」とその「傷」を受け入れる必要がある。そこからやっと自分の人生がスタートするのではと思う。

 

 

 

 

今、いろいろなことで思い悩んでしまうのは発達性トラウマが問題であるとして、どうしていけばいいのだろうか?

まず、「安全」を感じられなくなっていしまった神経系をいやす術を身に着けることが大切なようだ。いろいろ方法はあるようだが、1つ、自分にとって良かったのが、動物に触れることだ。自らの神経系で安全を感じられない人にとって、リラックスした様子の動物に触れることは、間接的に「ここは安全なんだ」と感じられるということらしい。僕自身、実家の犬に触れるととても癒されたし、池のある公園に行けば、カモがのんびりと水面を泳ぐ様子にも癒された覚えがある。人間以外の、自然の近くにいることが重要なようだ。

そして今後の動向を決める指針として、「危険」感じる対象は基本的に人間であるため、できる限り人に多く関わらないということも重要ではないかとも思う。

しかし、自分自身、まだ、どうすればいいかを悩むことも多く、これからどうなっていくのかも全くわからない。

 

 

 

発達性トラウマについて考えないといけないことはまだ多いようだが、個人的に、さまざまな精神疾患、パーソナリティ障害などの根本はこれなのではないかと思っている。十分に守られず、十分に愛されなかった人の挫折にもがき苦しんだ結果がうつ病などにつながっているのかもしれない。僕自身も発達性トラウマを知ってから、これからの生き方を前向きに考えられうようになったので、多くの人にこの根本の問題を知ってほしいと思っている。

ブロッコリーの中には何がいる?

ブロッコリーはおいしい。

栄養価がよく、調理も簡単で、いろいろな食べ方のできるブロッコリーはとても素晴らしい野菜だ。炒め物にいれてもおいしいし、ゆでたブロッコリーにマヨネーズをつけてるだけでもおいしい、最近はオリーブオイルをかけて、少し塩を振って食べるのがお気に入りだ。ゆでなくても、電子レンジで手軽に調理できてしまうのもありがたい。

そんなブロッコリーだが、食べているとき、まれに、違和感のある歯ごたえを感じるときはないだろうか?ブロッコリーの柔らかいつぼみの食感とは違う、少し硬いような、ジャリっとした歯ごたえがするときがある。

確かめたことはないが、大方、虫、ゴミ、土、などだろう。小さなつぼみが密集した隙間に、いろいろなものが入り込んでいても不思議ではない。意識してみると、それらを食べているのは気持ちが悪い気もするが、意外と普段は気にせず食べていたりする。気づくことすらなく食べているときだってあるだろう。

 確かに、「何か」が存在する。でも、認識はされない。結果、なんとなく、それが無かったかのように受け取ってしまう。もしかすると、認識されなけば、それは存在しないのと同じことなのではないか。いや、存在しないのだ。少なくとも、私の意識の中では。 

 

 

 

ここでふと思ったのだが、同様のことは他にもあるのではないかということだ。

 

格安商品の裏側

魅力的な値段で家計にも優しいが、一般的な値段と異なるその理由は何であろうか。特別な企業努力かもしれないし、何らかの「ズル」をしているかもしれない。

 

成績優秀な子の家庭での勉強時間

特に中学、高校の勉強は、頭の良し悪しよりも、努力量によって結果が決まると言っても過言ではない。勉強の苦手な子が「あいつは頭がいいから」とよく言うが、その子は成績優秀者が勉強に費やす時間、労力を知らないのだ。

 

知らずに住んでいる事故物件

その家、部屋で過去に何があったのか。凄惨な事件あるいは事故があったとしても、それを知らなければ、普通と何ら変わらない部屋でしかない。

 

政治家が受け取る袖の下

言わずもがな、現在においても様々な疑惑は存在する。しかし、疑惑のまま立件されないとなると、我々にはその真偽を確かめる術はない。何かがありそうでも、公には何もないということになる。

 

マイノリティーが受ける差別

自分は多数派に属することが多く、何らかの差別を受けた経験は無い。幸か不幸か、差別を知らないのだ。世の中にどんな差別があるか、知識として知っていることもあるが、当然、知らないことも多いはずだ。自分の中に存在しない差別も多いということである。もちろん、「知っている」だけで存在を認識しているなどと言い切ることもできないだろう。

 

しかしながら、これらは事実を知らない人にとって、存在しない問題であり、実際に自身に何らかの影響があろうと考える必要のないことである。

 

 

 

 

 

 

 また、反対に、認識してしまえば、頭の片隅からすらその存在を消すことはでないのもあり得る。

 

 夏休みの宿題

人にもよるだろうが、休みの終盤まで後回しにしていた人も多いと思う。宿題を後回しにした少年は、長い休みを満喫するべく、だらけ、遊び惚けるが、実はその心にはいつも宿題のことが存在する。そして、それをかき消すがごとく、追われたように夏を過ごす。

 

 そして、上記の、格安商品の裏側、優秀な子の勉強時間、事故物件、袖の下、差別も、何かのきっかけでそれを目の当たりにしたとき、その存在は確実に認識され、もう二度となかったことにはできないのである。

 

 

 

 ブロッコリーを細かく切り分け、中を確認すれば、「何か」の存在を実感できる。でも、そんなことをする人は皆無であろう。面倒くさいのだ。自分にとって知る必要のないことのために、わざわざ手間をかけることはしないものである。そして、人は、なんとなくある「何か」をそのままにしておき、無かったことにする。あたかも、はじめから何もなかったかのように…

 

 

 

結論を出そう…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

つまるところ、ブロッコリーの中には「何も無い」のである!

 

 

 

よかった!

我々は虫やゴミなどは食べてなかったのだ。これで安心(?)

 

うつの対処は波乗り

突然になるが、現在、私はうつ病である。

昨年の中頃から調子が徐々におかしくなり始め、今年の3月に、とあるきっかけで明確に体調を崩してしまった。今は療養中だ。症状としては、頭痛、耳鳴り、倦怠感、気分の落ち込み、意欲の低下、疲れやすい... などがある。精神科にかかり、薬のおかげもあり、今は割と落ち着いていて体調も悪くない。体調を崩し始めてから今に至るまで、自分の調子を確かめていく中で、少し感じたことがあった。それについて、書いておこうと思う。

 

 

 

私がうつになってみて感じたのが、うつには波があり、どうしようもなくしんどい時もあれば、比較的体も楽で動ける時もあるということだ。それまでは、うつに対しての認識は、気分が落ち込み元気がなくなり何も楽しめなくなる、というものだった。もちろんそういう状態にもなったが、割と元気な状態のときもあり、重要なのが、この波のせいで、余計に問題を起こしたりもするのである。「元気になるならそれでいいじゃないか」と思うところだが、実際は、元気なようであっても、うつとしての不安定な精神は裏に隠れているのだ。そして、自分で「今日は調子がいい。早速、やりたかったこと、やるべきことをしよう。」といろいろなことをやろうとしてしまうと、何かの拍子に急に体調を崩し、疲れやすいというのもあり、しばらく寝込むという結果になる。

 

また、うつといった精神の病につきものの「見た目でわからない」ために周囲の理解を得られない問題に加え、元気そうに見えるときがあることで、「甘えている。怠けている。本当は動けるんじゃないか。」などと、余計に理解をされなくなってしまうのだ。実際に言葉にされなくても、周囲の人間の戸惑っている様子はなんとなくわかるものだ。しかし、うつの波に最も戸惑っているのはうつに苦しむ本人だったりする。不調のときは、自分に価値がなく、お先真っ暗で、何か悪いことをしているような気持ちに襲われ、調子のいいときには、不調の自分を振り返り、その落差に、自分が信じられないような不安を覚えるのである。

 

 

 

 この「うつの波」は、自分だけではなく、うつに苦しむほかの人の声をネット上でも見るので、よくあることのようだ。そして、うつ自体、簡単に解決できるものではなく長く付き合っていくしかないものなので、その波にどのような対処をしていったらいいのかを考える必要がある。

 

 

まず、調子のいい時。先ほども書いたが、この時は無理をしがちなので、普段からの行動と大きく離れたことをしないように心がけること。特に「今のうちに」との気持ちから短時間に複数のことをこなそうとするのは非常に危険である。やることとしては「1日に1つ」を原則として行動を決めた方がよい。

 

 

そして、不調のとき。うつで気持ちが沈みこむときというのは、基本的に理由がない。何か嫌なことがあり、そのことにひどく悩まされるというよりは、具体的な出来事でなく、漠然とした不安、罪悪感が襲ってくることの方が多い。理由があれば、その問題の対処によってある程度、楽になることもあり得るが、理由がなく、嫌な思考、感情に飲まれる時というのは、対処のしようがないのである。できることとしては、ほかの何か、ちがう事に意識を向け、嫌な思考を断ち切ることであるが、行動を起こす気力もない中では、なかなか自分をコントロールするのも難しいものである。そのため、対処としてできることはあまりないと言うほかない。あるとすれば、きちんと精神科、心療内科にかかり、医師の診断の元、抗うつ薬を処方してもらい服用することである。うつの怖いところは自分でもコントロールできないことであるため、素直に医療にたより、少しでも症状を和らげたら、あとは寝て過ごし、動けそうなときは散歩でもするしかないのである。

 

 

 

うつの対処をまとめてみたが、つまるところ、力づくで何とかしようとしないというのが重要である。我々うつ人間は、海の上に漂っている存在だと考えてほしい。海面が穏やかな時は、さざ波に揺られるまま漂い、大きな波(うつの波)がやってきたら、波の力に逆らわず、極力影響を受けない体勢で待ち構えて、転覆しないように乗りこなすのである。波に逆らい、その場に無理にとどまろうとすることも、波から逃れようとすることも不可能と考えるべきである。もちろん、波のやってこない状態になれれば理想であるが、そうなるまでは時間もかかるようなので、上手に付き合っていくしかない。だが、波乗りにも慣れてくれば、それほど消耗せずに、乗りこなせるようになるのではないかと私は考えている。

 

 

とにかく大切なのは、焦らないこと、専門家に助けを求めること、この2点だと思う。私自身、まだうつに悩まされており、先日も抗うつ薬を増量したばかりだ。この先もどうなるかはわからないが、長期戦となることは覚悟しており、これからもうつに対処しつつ、うつになった原因の追究と、今後のよい生き方を探ることを続けていこうと思っている。

 

 

 

 

 

 

チキンラーメンはおいしいのか?

最近、チキンラーメンを食べた。

なんとなく久しぶりに食べてみようという気持ちからだった。

以前に食べたのがいつだったかはもう覚えてもないがしばらく前なのは確かだ。

久しぶりに口にしてみると、「そんなおいしくはないよな。」それが自分の素直な感想だった。

そして、はっきりとは思い出せないながらも前回食べたときの記憶として同じ感想を持ったことをおぼろげながら思い出す。

では、自分はなぜチキンラーメンを食べたのだろう?

主観ながら、味がそれほどでもないこの簡素なインスタントラーメンはなぜそれなりに売れているのか?

そんなことをふと考えた。

 

 

 

 

まず自分が久々に買う気になった理由は、「なつかしさ」だった。

自分の祖父はかつて小さな会社を経営しており、子供のころその事務室で祖父とチキンラーメンを食べた記憶がある。

もちろんそれ以外でも食べたことはあったが、そのときのことがまず初めに呼び起こされる。

チキンラーメンを食べるとその味・匂いにつられ、事務室のにおい・景色や昔の祖父の様子などが脳裏に浮かんでくるのだ。

それが懐かしくて定期的に食べたくなっているようだ。

つまり自分にとってチキンラーメンは、そんな懐かしい記憶を呼び起こす「媒介」として働いてくれるものであるようだ。

チキンラーメンは値段も安く、手軽に食べられるため、子供のころに食事あるいはおやつとして食べた人も多いのではないだろうか。

そのため、大人になってから食べてみて当時を思い出すこともあるはずだ。

 

 

 

 

 

これは主観でしかないので少し客観的な視点も考えてみたい。

ここ最近のチキンラーメンのテレビCMで「最高にうまい食べ方は外だ!」という言葉を聞く。(もう変わってるかも)

最近流行りのキャンプに合わせてのものだと思うが、その意味としてはアウトドアの「解放感」と共に楽しむことでよりおいしく感じられるということだろう。

新型コロナが流行し、娯楽が制限され、あらゆることに自粛を求められ窮屈さを感じる中、屋外での「解放感」を「増幅」させることができると謳っているのである。

つまり、チキンラーメンの本来の味そのものというより、楽しさをより強く感じさせてくれる「増幅装置」としての面を押し出したCMなのだ。

これは僕の思う記憶の「媒介」と同じようなものではないか。

チキンラーメンは記憶の「媒介」、楽しさの「増幅装置」として働き、形のない何かをトッピングのようにして一緒に味わわせてくれるのである。

 

 

 

 

 

これまで「媒介」「増幅装置」としての価値について書いてきたが、味については「そんなにおいしくはない」で終わっていいのだろうか?

僕が「おいしい」について一つ思い出すのが、かの美食家、北大路魯山人の著書で読んだことだ。

なんという名前か、その内容そのものもうろ覚えであいまいなので間違っているかもしれないが、それは「フグ」についての話だった。

魯山人曰くフグは「味がなく、それだからこそ美味である」とのことだ。

僕自身、数回ながらフグは食べたことがあり(もちろんトラフグ)、自分の味覚で「味がない」と感じていたのでこの話はよく覚えていた。

正直、魯山人の真意はよくわからないが、自分としては「美味」「おいしい」は味覚のみで語られるものではなく、味が無くても他のさまざまな要素から成立するという解釈をしたいと思う。

これをチキンラーメンに当てはめると、味そのものがそれなりでも、「媒介」「増幅装置」としての他の価値によって「おいしい」と言うことができるのではないだろうか。

 

 

 

 

 

 

つまりチキンラーメンは「おいしい」のである。

実際長く売られているわけなので、多くの人が何かしらの価値を感じており、そこにはこのような価値が隠されていたのではないだろうか。

それぞれの人がチキンラーメンによって何を思い出すのかとても気になるところである。

 

 

 

 

 

しかし、5袋入りで買ったチキンラーメンも1つ食べたら満足してしまった。

もう食べたい気持ちもないし残りをどうしよう。。。